深い眠りに落ちた|墨余穏《モーユーウェン》は、記憶を辿る夢に沈んだ。それは鮮明に、|墨余穏《モーユーウェン》の瞼の裏に立ち現れる。 かつて尊仙廟の近くにあった|豪剛《ハオガン》の家で、十五歳の|墨余穏《モーユーウェン》は、修得したばかりの呪符を書き連ねていた。 「うん! よし! これでいいだろう」 |豪剛《ハオガン》から道教の仙術を一通り習い終えた|墨余穏《モーユーウェン》は、様々な呪符を書いては時々現れる妖魔をことごとく抹消し、|豪剛《ハオガン》も感心してしまうほどの強さと実力を持ち始めていた。 |豪剛《ハオガン》に引き取られたことが功を成し、|墨余穏《モーユーウェン》の人生は大きく変化していった。 するとそこに、出掛けていた|豪剛《ハオガン》が、何やら大きな荷物を抱えて帰ってくるではないか。 「お〜い! |墨逸《モーイー》〜! 生きてるか〜? 大魚だぞ〜!」 「お、父ちゃんお帰り! わぁ、すげぇ!」 二人で食べるには大き過ぎるほどの川魚が、卓の上にどさりと置かれた。|墨余穏《モーユーウェン》は目を丸くして続ける。 「凄い大きいね。どうしたの?」 「ん? あぁ、河川で妖魔が出るっつーから、見に行ってやっつけたら、魚屋のおっちゃんらが礼にってくれたんだよ〜。これで、しばらく死なずにすむな〜、あははははっ」 時々、こうして人助けをしながら、|豪剛《ハオガン》は色んなものを持って帰ってくる。 先日は、絵を生業としている男の家で頻繁に出没する幽霊を退治しに行ったら、その礼にと瞬く間に本懐を遂げてしまうような、完成度の高い春画の巻物を貰って帰ってきた。 物だけではない。 昨日は、妖魔なのか人なのか分からない痴れ者まで連れて帰ってきてしまい、悪戦苦闘していた。 こういう人垂らしなところがある|豪剛《ハオガン》は、日頃から人に尽力している為、多少の難癖があっても角を出されることはない。 「墨逸! 火を起こすの一緒に手伝ってくれ」 「うん!」 二人は外で火を起こし、贅沢に塩を塗りこんで、魚を焼き始めた。焚き火の前で二人はたわいもない話をしながら、|豪剛《ハオガン》は思い出したかのように、天台山で開催されるある会について話し出した。 「あ、そうだ! |墨逸《モーイー》。お前のような各門派の青年たちが集う天流
寒仙雪門の冷風に乗って舞い踊る水仙の甘い香りが部屋中を漂い、|墨余穏《モーユーウェン》の鼻の奥をつんと冷やす。 ゆっくりと目を開け、豪華な白い紗が幾重にも重なった洒落た天井を見遣る。 (ここは……) 「目が覚めたか」 透き通った聞き覚えのある美声が、脳天に降りてくる。 |墨余穏《モーユーウェン》はムクっと上体を起こし、カチャカチャと音のする方に目を向けると、仏頂面な顔で|師玉寧《シーギョクニン》が茶を淹れていた。 「ここは?」 「私の私室だ」 (ここが、建て直したと言っていた玉庵か……) そう聞いた|墨余穏《モーユーウェン》は、夢でも見ているのではないかと錯覚し、自分の頬をつねる。あれだけ会うのを躊躇していた|墨余穏《モーユーウェン》だったが、いざ水仙の花を目の前にすると非常に眺めが美しく、心が躍った。 「|墨逸《モーイー》。茶だ。飲むといい」 |師玉寧《シーギョクニン》は卓の椅子に腰掛け、自らも淹れたての茶を啜る。|墨余穏《モーユーウェン》は寝台から降り、|師玉寧《シーギョクニン》と向かい合うようにして椅子に座った。 揺蕩う湯気が心地良く、|墨余穏《モーユーウェン》は「いただきます」と言って茶をそっと口に含んだ。 しかし、|墨余穏《モーユーウェン》はすっかり忘れていた。 |寒仙雪門《かんせんせつもん》で出される茶は、苦くて有名な一葉茶であることを。 目の前にいる|水仙玉君《すいせんぎょくくん》は、水を啜っているかの如く、何一つ表情を変えない。 茶器を握りしめたまま続きの一口が飲めないでいると、見兼ねた|師玉寧《シーギョクニン》が、くぐもった声で一言放った。 「最後まで飲め」 |墨余穏《モーユーウェン》は片方だけ口角を吊り上げながら、苦笑いを浮かべる。飲めないなどとは言わせない圧が、短い言葉から滲み出ていた。 |墨余穏《モーユーウェン》は一息置いて、一気に飲み干す。 (うぅ……、まっず……) すぐに俯き、しばらく顔を上げられないままでいると|師玉寧《シーギョクニン》が卓の上に一枚の呪符を置いた。 「|墨逸《モーイー》。これはお前のか?」 |墨余穏《モーユーウェン》はゆっくり顔を上げて、「うん」と答える。続けて「なんで持ってんの?」と尋ねた。 |師玉寧《シーギョクニン》は、
あれから叶わぬ慕情を抱き、あれこれと思い煩っていると、気がついたら朝陽が昇っていた。 |墨余穏《モーユーウェン》は寝台から気怠く起き上がり、椅子に掛けておいた黒い衣に着替え、書いておいた呪符を胸に忍ばせて部屋を後にする。 宿屋を出てすぐ、|一枚の神通符がこちらに向かって飛んで来るのを感じた。 |墨余穏《モーユーウェン》は右手でそれを瞬時に掴み、神通符に書かれてあった文字を読む。 『|鳥鴉盟《ウーヤーモン》襲撃。至急援助を求む』 「まだ朝だぞ……。いつから鴉は夜行性じゃなくなったんだ?」 |墨余穏《モーユーウェン》は独り言を呟きながら、神通符を手で握り潰し、|緑琉門《りゅうりゅうもん》へ向かった。 昨日行った裏庭ではなく、|墨余穏《モーユーウェン》は正面の門が見える場所へ移動し、高い木の枝に登って身を潜めながら全体を見下ろした。 すると、ちょうど|青鳴天《チンミンティェン》率いる鴉の大群と、|葉風安《イェフォンアン》たちと各門派たちの数名が対峙しているのが見える。 |寒仙雪門《かんせんせつもん》の|一恩《イーエン》と|一優《イーユイ》はいるが、|師玉寧《シーギョクニン》の姿はないようだ。 |墨余穏《モーユーウェン》はどこか安心を得るように心を撫で下ろしていると、突然緑琉門の門主・|葉誉《イェユー》の怒声が境内全体に響き渡った。 「どういうつもりだ! |青《チン》少主! 娘はやらんと何度も言っているだろう! 何故こんなことをする! |天文山《てんもんざん》の掟に反するぞ!」 「ふんっ。何が掟だ! 今や力のない天文山の掟など、くだらねぇ! 生きてるか死んでるかも分からねぇ、あの盲目のジジイの言うことなど聞く必要ねぇーだろ」 黙って聞いていた|葉風安《イェフォンアン》が、声を荒げる。 「|道玄天尊《ドウゲンテンズン》を侮辱するな! お前たちのせいで三神寳が無くなった今でも、あのお方がいらっしゃるからこうして均衡を保てているのだ! お前たちの領地にも、どれだけ尽力してくださっているのか分からないのか!」 「黙れ! 貴様、誰に向かって口をきいてぇんだ! あのジジイが尽力だと? 寝言は寝て言え! 我々、鳥鴉盟を追放したのはあのジジイだぞ!」 |青鳴天《チンミンティェン》は怨色を見せながら、唾と悪声を飛ばした。怒りが
しばらくすると、卓の上に注文した料理が次々と運ばれてきた。 そこには|墨余穏《モーユーウェン》の好きな|羊肉串《ヤンロウチュアン》もやってくる。 「わぁ〜美味そう! |尊丸《ズンワン》和尚、食べてもいい?」 「どうぞ。たくさん食べなさい」 |尊丸《ズンワン》は穏やかな笑みを見せ、他の料理に手をつけながら、ここ十年で起きたこの町の出来事を面白おかしく話し始めた。 串屋の亭主は昔、大の犬嫌いだったのだが、好きな女子が犬好きだと知り、魔除けの呪符を身体中に貼り付けて犬嫌いを克服したとか、甘味処の女将さんと摩擦を起こしていた姑が亡くなり、女将さんの羽振りが良くなってお店は大繁盛。しかし、軒先で出している糖葫芦(タンフール)が何故か客の手に渡ると不味くなり、姑の呪いだとこの町では怪談話になっているそう。 そんなどうでもいい話を酒の肴にしていると、突然、外から酒楼の扉を勢いよく蹴り飛ばす音が店内に響き渡った。 客たちは皆、酔いが冷めたかのように騒然とする。 |墨余穏《モーユーウェン》も何事かと、扉の方に目を向けた。 「おい! 七人だ、中へ入れろ!」 黒と紫が混在した衣を着た輩たちが、続々と入ってくる。 |墨余穏《モーユーウェン》は、その中にいたある男を見た瞬間、眉間に皺を寄せた。あの因縁の相手、|鳥鴉盟《ウーヤーモン》の|青鳴天《チンミンティェン》だ! |青鳴天《チンミンティェン》は|墨余穏《モーユーウェン》の存在に気づくことなく、傲慢な態度で案内された椅子にだらしなく腰掛けた。 この男のだらしなさは天下一品で、食べ方一つとっても下品だ。そんな男とここで変な争いを起こしたくないと思った|墨余穏《モーユーウェン》は、一つに結っていた髪を解き、垂れ下がる髪で顔を隠した。 異様な空気が漂う酒楼では、今まで派手に酒を煽っていた中年の男たちも、双六で盛り上がっていた若者たちも皆静まり、鳥鴉盟たちがいる席と一番端の対角線上にいる|墨余穏《モーユーウェン》は、鳥鴉盟たちが話す会話に耳をそばだてた。 「|青《チン》少主、明日本当に突入するのですか?」 「あぁ。この俺が何度も文を出しているというのに、応えようとしないからな」 |青鳴天《チンミンティェン》はそう言って酒を一気に煽る。恐らく|葉鈴美《イェリンメイ》の事だろうと、|墨余
翌日の昼。 緑琉門から尊仙廟に戻ってきた|墨余穏《モーユーウェン》は、|葉鈴美《イェリンメイ》から土産で貰った桃と、帰りの道中で買った万頭と酒を持って、尊仙廟の裏手にある墓へ向かった。 今日は、|豪剛《ハオガン》の命日である。 |墨余穏《モーユーウェン》は「父ちゃん、酒と桃持ってきたよ」 と言って、|豪剛《ハオガン》の墓の前でどさっと座り込んだ。 酒瓶の先についている二つの杯にそれぞれ酒を注ぎ、本人と交わすかのように、墓に杯を当てて乾杯した。 |墨余穏《モーユーウェン》は一気に飲み干し、独り呟く。 「なぁ、父ちゃん。俺、死んだはずなのに何故か甦っちまったみたいでさ……。俺、これからどうしたらいい?」 |墨余穏《モーユーウェン》は万頭を齧りながら、答えてはくれない声を待った。 今でもあの頃のように|豪剛《ハオガン》と一緒に生きていたら、こうした迷いなど生じず、くだらない事で笑い転げ、こんな暇を持て余す事もなかっただろう。 |墨余穏《モーユーウェン》は墓の横に咲いていた蒲公英を引き抜き、花弁を一枚ずつ取りながら、|豪剛《ハオガン》と出会った頃の幼少期を思い出した。 あれは五歳の夏頃だっただろうか━︎━︎。 両親が流行り病で同時に死んでしまい、住んでいた家が無くなった。一人残された|墨余穏《モーユーウェン》は、路上で生活せざる得なくなり、露店から出るゴミを漁ったり、物乞いをして何とか少量の食事にありつけるという日々を過ごした。 裕福な子供たちからは、差し入れだと言って泥水や泥団子を渡され、笑われる日々。着る服も端切れのように破れ、不衛生で汚い子供だと、通りかがる老若男女に忌避された。 やがて季節は夏から冬になり雪が舞い始める。 |墨余穏《モーユーウェン》の小さな身体は、限界を迎えようとしていた。身体全体に霜焼けが広がり、目も虚ろで、遂に話すことすら出来なくなった。 するとそこに、凍死寸前だというのに、更に追い討ちをかけるかの如く、子供の体を売り飛ばす輩が|墨余穏《モーユーウェン》の前にやって来た。「ほぉ。こんな所にいい品物が落ちてるじゃないか。売ったら金になりそうだな〜。おい、立て! クソガキ!」 歯が抜け落ち、顔も黒ずんだ汚らしい輩が、横たわる|墨余穏《モーユーウェン》の腹を蹴り、無理矢理立たせようとした。 凍傷
|墨余穏《モーユーウェン》は翌朝、|尊丸《ズンワン》が持ってきた粥のいい香りで目覚めた。 「|墨逸《モーイー》、おはよう。無事に帰ってきたようだね」 |尊丸《ズンワン》は粥が乗った盆を床に置き、窓を何箇所か開ける。 差し込む日の光の中で、光沢を帯びながら漂う埃が、外へと出ていく。 「|尊丸《ズンワン》和尚、おふぁよぉ〜」 |墨余穏《モーユーウェン》は欠伸をしながら続けた。 「もう、全然余裕だったよ。何なら昔より若干強くなったかも」 |尊丸《ズンワン》は「え?」と驚き、目を擦りながら話す|墨余穏《モーユーウェン》を見る。 |墨余穏《モーユーウェン》は元々、|豪剛《ハオガン》の教えもあってか|内丹《ないたん》の霊力が高い。強靭な体力と知性を持ち合わせていることもあって、門派の中でも指折りの実力者だ。しかし、|墨余穏《モーユーウェン》は無理をして己の限界を常に越えようとするところがあり、自分への加減が上手くできない。 前よりも更に力を身に付けたとなると、必ずどこかでまた同じ事が起こるのではないかと|尊丸《ズンワン》は心配した。 「|墨逸《モーイー》。あまり無理をしないようにね」 「はははっ。大丈夫だよ! 今度は死なないようにするから〜」 無邪気に笑う|墨余穏《モーユーウェン》に、|尊丸《ズンワン》は美味しくない物を口に入れた時のような苦笑いを浮かべた。 朝餉を終えた|墨余穏《モーユーウェン》は、|尊丸《ズンワン》に出掛けると告げて、仲の良かった後輩の|葉風安《イェフォンアン》に会いに行くことにした。 |緑琉門《りゅうりゅうもん》がある|緑稽山《りょくけいざん》には|乗蹻術《じゃきょうじゅつ》という飛行術を使って飛んでいく。この術は三十里を半刻で移動できる優れものなのだが、鍛錬を続けている修仙者でもこの術はかなり霊力を消費する為、緑琉門の裏手の山に到着した墨余穏は既に息も絶え絶えで、木陰の大木にだらしなく凭れた。 (さすがに、甦ったばかりのこの体ではキツいな……) |墨余穏《モーユーウェン》は緑琉門の中に入る時は、いつも正面の門ではなく、葉風安の住処の裏庭に繋がる裏手の山から侵入していた。|墨余穏《モーユーウェン》はようやく息を整え、|葉風安《イェフォンアン》の住処がある裏庭へと降っていく。 |葉風安《イェフォンア